われわれは動物として生きるよりも、むしろ人間として死にたい
バートランド・ラッセルの『幸福論』より。
趣味や生き甲斐とは何か、ということを語っています。
酒を飲むことは、一時的な自殺にほかならない。
いかなる形においてでも、陶酔を求める人間は、忘却以外の希望はすべて投げ捨ててしまっている。
趣味や生き甲斐は、多くの場合、いや、おそらく十中八、九まで根本的な幸福の源泉ではなくして、むしろ現実からの逃避の方法であり、直面するのにはあまりにも困難な何かの苦痛を忘れるための手段にすぎないだろう。
親鸞会ではこの言葉が良く使われ、だから親鸞会でないと本当の幸せにはなれないんだと説きます。しかし私は親鸞会こそが「一時的な自殺」であり「現実からの逃避の方法」に他ならないと思います。
私は親鸞会で趣味や生きがいを超えた本当の幸せになった人など、誰一人として知りません。それどころか、長年親鸞会で「救われたー」と体験談を書いていた人が、実はそれは華光会で救われた体験であったりとか、またそれ以外の人もその内容にはかなり怪しく不可解な点が多く、信心に対する会の見解もコロコロ変わっている上に、高森会長の救済体験でさえ怪しい点が多いからです。
それなのに会員は「趣味や生きがいは現実からの逃避、親鸞会で求道すれば本当の幸せになれる」と「思い込んで」布教や財施に一生懸命です。保障も見込みもないものを本当の幸せと信じ込んで、現実の苦痛から逃避しているという点では、ラッセルの言う「趣味や生きがい」と何のかわりもありません。
親鸞会の人と接していると、そのあまりにステレオタイプな人生観に驚く人も少なくありません。勧誘のときは「一緒に人生について考えよう」「人生に疑問を持つのは大事」といいながら、実際に会に入ってみると、決まった答えを盲信するだけの活動で、善知識の言うことに無条件服従せよ、自分の腐った頭で考えるな、親鸞会以外の仏教書を読むな、親鸞会を批判するサイトや見るなと徹頭徹尾「考えること」を放棄させているのですから、当然といえます。
ラッセルはクルーチ氏の次の言葉を引用しています。
「われわれは動物として生きるよりも、むしろ人間として死にたい」
疑問を持つことも批判することも禁じられ、一方的に「真実」を押し付けられ、一方では財施や布教という形でとことん搾り取られるその姿は、家畜と何が違うのでしょうか。
考えるのも悩むのも苦労を伴うことです。その苦しみを放棄して捻じ曲がった「真実」とやらを信じ込み、ラッセルなどの識者を言葉を子供のように振り回して「真実知らない人」を見下す様は、滑稽としか言いようがありません。
最近長年親鸞会で活動してきた幹部の脱会が相次いでいます。彼らもまた、動物として生きるよりも、人間として死にたいと考えたのでしょう。
誰しも、自分が騙されていたと認めたくありません。しかし、実際には人間は騙される存在です。騙された自分を認めたくないがゆえに考えることを放棄してはなりません。
勇気を持って自分の進む道を再考し、方向転換を成し遂げた人たちに、心から敬意を表したいと思います。
私もまた動物として生きるよりも、人間として死にたいものです。
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