如来のみ声
かつて高森布教局長の不倫疑惑が講師部を揺るがし、高森会長自らによる粛清合宿が繰り広げられたときに、高森会長はネット上の批判は「如来のみ声だ」と言っていたと聞いています。それにしては不倫疑惑自体を「捏造」と決め付け何の検証も許さなかった訳ですが、この高森会長の言葉自体は間違っていないと思います。
当時の親鸞会にはまだネットやマスコミの批判をすべて捏造と決め付けるのではなく、「もっともな批判があるのならば耳を傾けよう」という空気がありました。その証拠に、身分詐称は多くの指摘を受けてあまり行われなくなりましたし、ネットに書き込まれた脱会者の声を読んで「あんなふうに思われているとは思わなかった」と反省する講師部員もいたのです。
それがいつしか「ネットの批判は本願寺の陰謀」「書かれていることは捏造」とされ、少しでもネットの批判に同調的なことを言おうものならば、まるで悪魔の手先になったかのように非難されるようになり、そして読むことすら禁じられました。
たとえば私の白道や清森問答といったサイトには、親鸞会にとって非常に貴重な提言が数多く含まれていると思いますが、当然ながら会内でこうしたサイトの内容について真摯に耳を傾けようという動きはまったく見られません。
親鸞会を脱会した人の書いたものです。当然、私情は入っているでしょうし、誤解や不当な非難もあるでしょう。すべてを受け入れろと言っているのではありません。批判というのは、一見理不尽なように見えても、全てがそうではなく、中には全うなものもあるという当然のことを言っているまでです。
当然それは私たち反カルト側にも当てはまります。カルトがすべて悪で、反カルトが絶対の善のように取り違え、自分たちに寄せられる批判の声を善悪二元論で全て切り捨てるようならば、それはカルトと何の違いもありません。
批判する人も批判される人も、全てが正しいのでもなく、全てが間違っているのでもありません。カルトの全てを悪と決め付けたら説得はできません。自分たちが全て正しいと相手を見下ろしていれば対話にはなりません。
お互い間違いだらけの身なのです。私たちは悪を糾弾するという姿勢ではなく、ただ脱会して知らされたことを語る。それを聞いてやめるかやめないかは本人が考えることです。
親鸞会が自分たちに寄せられる批判の一部でも「如来のみ声」と聞くようになれば、もはや親鸞会はカルトではありません。それを期待する我々もまた同様の姿勢でなければならないのは、言うまでもないことです。
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