« 2007年9月 | トップページ | 2007年11月 »

最後の砦が崩れるとき

親鸞会の会員の減少が続いています。

既に最盛期の半分以下に落ち込んだ会員数ですが、更に流出が続いています。今まで減少傾向が顕著であった若年層のみならず、支部の中核会員でもやめる人が後を立たないそうです。

親鸞会は信頼を失い続けています。

億単位の金を集めてもその使い道すら明らかにされず、不透明な献金の行方が不信につながっています。会長の息子のスキャンダルが話題になり、一部の幹部のセクハラが明るみになっています。弁当屋やコーヒー屋、コンビニなどの営利企業に浄財が募られ、一切の批判を許さず高森会長への無条件服従が強要されています。

大学での活動は統一教会や摂理と同一に見られ、相次ぐ苦情で大学側の対策が始まり、成果は激減しています。

会員が心のよりどころにしていた高森会長さえ、信心の詐称疑惑や、著作の盗作が明らかにされ、会員の心は次々と離れています。

それでもなぜ親鸞会を離れない会員がいるのか。それは「親鸞会が唯一親鸞聖人の教えを正しく伝えている」という最後の砦があるからです。

しかし、その砦も崩壊寸前です。

親鸞会・除名の真相2というブログでは、親鸞会が退会者から本尊を取り返すことについて、親鸞聖人の教えと異なった行為でないか、という質問が、親鸞会の広報部門の責任者である渡部隆志弘宣部長になされています。

この質問に渡部氏は、未だに全く答えることが出来ていません。親鸞会が親鸞聖人の教えを正しく伝えているはずならば、自信を持って回答できるはずですが、渡部氏はこの問題には全く答えることが出来ず、話題をそらすばかりです。

親鸞会、最後の砦は崩壊寸前です。これが崩れたときに、親鸞会には何が残るのでしょうか?

田舎に残された閑散とした巨大な講堂と、買収した多くの施設と、精神の支えと収入の道を失った多くの職員や講師部員だけが残るのでしょう。他には日本のカルトの歴史に名を残すのが精一杯かもしれません。

もうすぐ、本当に親鸞会に人生をささげる人たちの選別が始まります。その人たちは物心両面で絶対に親鸞会を離れることが出来ないような所に追いやられます。

そうなっては手遅れです。最後に泣くのはいつも末端の人たちなのです。

| | コメント (1)

高森ブランドの崩壊

顕正新聞10月15日号は例の「77000円の高森会長とのパック旅行(もちろん交通費は別)」と「5億円の弁当屋」の賛嘆にあふれていました。

パック旅行のほう。これは「手を伸ばせばそこに会長先生が!!」的な記事でまるで高森会長がアイドル並みの扱い。以前のエントリでも触れましたが、正本堂の奥に引っ込んでないで、普段から会員と接触を心がけていればそもそもこんな記事も書けないでしょう。

これまでも「高森会長のサイン入り御著書(実はサインは印刷)」が10万円以上の御報謝(献金)!!的な金集めは行われてきましたが、今後はもっと積極的に「高森ブランド」を利用した金集めは行われることになりそうです。

神格化された高森会長とちょっと触れただけで舞い上がっている会員が哀れでなりません。外から見ればごまかしと盗作と我欲に満ち溢れたただの老人なのにね。

「5億の弁当屋」については、いかに弁当がすばらしいか的翼賛記事で一杯。読んでるだけでおなか一杯。

そこには「なぜ営利企業に会員から5億円も集めなければならないのか」「そもそもこの建物と設備にどうして5億円もかかるのか」「集めた金の使途が不透明」といった会員の声は封じられています。

まるで戦争への批判を禁じ、都合の悪い情報を報道しなかった戦前の日本を見ているようです。

この弁当屋も合わせて、総額20億円の「聞法ドメイン財施」は、未だに目標に達しておらず、会員の内心の不満も高まっています。だから顕正新聞は毎号毎号買収した施設や弁当屋の記事を紹介し続け、心の離れた会員にこれら施設の意義を説明するのに必死です。

しかし、もう無理でしょう。正本堂の100億超の財施に会員は疲弊しきっており、何度も追加で繰り返される金集めに辟易しています。そして、集められたお金がどれだけだったのか、何に使われたのか、余ったお金はどこに行ったのか、といった説明も一切ありません。

親鸞会の成長が止まって久しく、今も脱会者が相次いでいます。金が集まらないのは、説明が足りないからではありません。自らへの批判を封じ、嘘とごまかしによって作られた「高森ブランド」の価値は、高々6000人程度の人たちをつなぎとめる事も出来なくなっています。

| | コメント (1)

有名人か金を積んだ人限定

随分私の知り合いも親鸞会をやめましたが、その中の一人が面白い事を言っていました。

親鸞会に疑問を持ったきっかけはなんだったかと聞いたところ、トップ(高森会長)と会員との接触の浅さだと言うのです。

従業員数が何万人もいるような会社でも、トップは積極的に末端の社員と会話し、ひとりひとりの事を出来るだけ知ろうとする。

しかし会員ひとりひとりの後生を念ずる団体のトップである高森会長が、末端の会員と話をしたことなど見たことが無いし、自分自身も全く無かった。わずか7000人にも満たない会なのに。

こんな団体、何かおかしいのではないかと思った、と言うのです。

そういえば、10月1日号の顕正新聞に高森会長と、著名な翻訳家であるサイデンステッカー氏との握手の写真が載っていました。

サイデンステッカー氏の存命中には殆ど公にせず、亡くなられてから会の宣伝に使うのはどうしたものかと思いますが、何しろたった一回正本堂に来ただけで会長と握手できるのですから、会長も利用価値のある人物だと思ったのでしょう。

一方十数年、数十年親鸞会で活動している人たちにとっては、会長は雲の上の人物。握手も無ければ話をすることも出来ません。ボディーガードに守られて壇上に上がり、話が終わると直ぐに自分の専用フロアに帰ってゆく高森会長しか知りません。

昔は握手をする方法はありました。会長の法話のときに数十万円の献金をして「代表施主」になると、運がよく会長が法話を休まなければ、一度だけ握手できるのです。その後、秘書が書いた「会長先生のお歌」(実は大沼法龍のパクリ)入りのハガキももらえます。

あ、今も77000円払って「懇親会」に参加すれば、一緒に食事をするくらいは出来ますよ。数百人との相席ですけど。

会員ひとりひとりの後生を念ずる高森会長は、利用価値のある有名人か、もしくは金を積んだ人じゃないとお近づきにはならないと言うことです。わかりやすい人ですね。

俗人よりも遥かに俗な「善知識」ではないですか。実に浅ましい。

会員との接触の浅さから親鸞会に疑問を抱いた件の彼は、高森会長の本質を実によく見ていたと言えるでしょうね。

| | コメント (2)

« 2007年9月 | トップページ | 2007年11月 »