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弘宣部が顕正新聞紙上で高森会長を批判

9月1日号の顕正新聞「論説」にて、ついに弘宣部が高森会長への批判を始めました。親鸞会は自浄能力の無い団体であり、絶対に会長を批判することなどありえないと思っていましたので、これは画期的なことです。

以下、当該部分を転載します。

 自惚れるなよ、自惚れるなよ、と自分でどれだけ戒めても、やはり自惚れる。しまいには、おれは自惚れていないぞと自惚れるから始末が悪い。
 「偉そうにする値なぞ、なき身なり」の反省は常に大事だが、同時に道を誤ろうとした時、自分を厳しく指摘し、正してくれる法友の存在が大切だ。
 それがまさしく、信心の沙汰である。
 自惚れから仏意をねじ曲げ、自己流の信心に陥って、とんでもない「珍しき法」を作り上げる者もいる。しかも、思い込んでいる当人は毛頭気付かない。善知識のご説法も、都合の悪いところは聞き流し、お聖教のどんなご文も、自分の体験を通して都合よく読んでしまう。
 そんな時、よき法友の言葉で目が覚める人もあるが、悪しき者たちの同調で、余計に信心が固まってしまう場合もある。傍から見れば、こっけいなほどおかしな主張でも、本人たちは大真面目で、教えを破壊している自覚が無いから恐ろしい。
(顕正新聞「論説」 平成19年9月1日号)

「自惚れるなよ、自惚れるなよ、と自分でどれだけ戒めても、やはり自惚れる。しまいには、おれは自惚れていないぞと自惚れるから始末が悪い。」というのは、自分を親鸞・蓮如以来の善知識と自惚れ、会員の浄財で巨大な建築物をたて、そこに参詣者を集める事を強要する高森会長の事を言っているのでしょう。

「同時に道を誤ろうとした時、自分を厳しく指摘し、正してくれる法友の存在が大切だ。」というのは、周囲をイエスマンばかりで固め、自分や組織を批判するものを相互監視で密告させる高森会長を批判しているのでしょう。

「自惚れから仏意をねじ曲げ、自己流の信心に陥って、とんでもない「珍しき法」を作り上げる者もいる。しかも、思い込んでいる当人は毛頭気付かない。」というのも、かつて華光会の著書や機関紙に「次第にその迷雲は晴れ」「すべてがつつまれていたことに気付くのだ」と平気で書き、時代によって信心に対する考えを何度も変えながら、自分は救われていると妄信している高森会長の事を言っているのでしょう。

「善知識のご説法も、都合の悪いところは聞き流し、お聖教のどんなご文も、自分の体験を通して都合よく読んでしまう。」というのも、覚如上人のご教導に反し、親鸞会をやめる人に本尊を返す事を強要したり、貼り合わせの捏造本尊を作ったり、自らを阿弥陀仏の化身と顕正新聞に書かせて平気な高森会長の事を言っているのでしょう。

「傍から見れば、こっけいなほどおかしな主張でも、本人たちは大真面目で、教えを破壊している自覚が無いから恐ろしい。」というのは、親鸞会の主張が傍から見るとこっけいなほどおかしな主張であると、わかっているのでしょう。親鸞会の会員に対して、客観的に自分たちの会長の姿を見よと、諭しているのだとしか思えません。

高森会長の著作のほとんどが先人の著書からのフルパクリであったり、昔と今といっていることが全然違ったり、上田グループとの法論に連敗したり、弁当屋の建設や土地や建物の買収に血道をあげている親鸞会。

弘宣部員もその矛盾点に、いよいよ気付き始めたのかもしれません。

よき縁を求め、裏切られることがあっても、裏切るものになってはならない。
(同論説より)

私も高森会長を盲信し、自分たちの求めてきたものが間違いだと思いたくないばかりに、自らの良心や親鸞聖人の教えを裏切ることあってはならないと思います。

もちろんこの記事が高森会長を名指しで非難しているわけではありませんが、私の知る限り、どう読んでも記事の批判に該当するような人物は高森会長しかいません。この記事を掲載をした弘宣部の勇気に心から敬意を表します。

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コメント

8月15日号の顕正新聞 7Pでも、弘宣部が留学生の話という隠れ蓑を使い親鸞会への批判を書いています。
「コロンビアから来た才女」という題名で記事が掲載されています。

以下、当該部分を転載します。
  「・・・その神の名の下で戦争を繰り返して、信者以外を排除するやり方に疑問を持っていたんです。」

阿弥陀仏と真実のみ教えの名の元に他との衝突を繰り返し、方針に従わないものは除名する親鸞会の姿そのままではありませんか!

ジョアナさん、あなたはせっかくコロンビアから来たのに、残念ながら再び同じものを掴んでいるようですよ・・・

投稿: | 2007年9月 9日 (日) 21時14分

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