高森顕徹著「光に向かって100の花束」は大沼法龍の著作のパクリです
高森顕徹の「会報」などの著作が、華光会の伊藤康善や大沼法龍の著作のパクリ(盗作)であることは、高森顕徹の著書のルーツで詳しく報告されています。
そして最近、「光に向かって100の花束」もパクリだと言うことが明らかになりました。
大沼法龍師の言葉というブログが最近公開されました。
ごく一部を抜き出してみてみます。
ニューヨークのウールウォース商店が、一名の監督を募集した、世界一の均一商店の監督というのだから希望者は雲来し素晴らしい推薦状を携えた者も多かった。しかるにその商会では大した学歴もなく紹介状もない一青年を採用した。その理由は「あの青年は一葉の紹介状も携えなかったが実は多くの事実上の紹介状を携えていた。彼は部屋を通らんとして先ず足の塵を払い既に通ればその扉を閉じた、注意深い性格が窺われる。席に就こうとした時に跛の老人のいるのを見てこれに席を譲った、親切なことが之で知れる。室に入るや先ず帽子を脱して敏捷にしかも鄭重に自分の問に答えた、丁寧で礼儀正しいことがこれでわかる。自分が故意に床の上に置いた書物を他の者は知らぬ振りしているのに彼はこれを取り上げて机上に置いた。また彼は毫しも先を争わず徐に己の番のくるのを待っていた。その服装は粗末なものであったが、些の塵埃もなく、髪は美しく梳られ、歯は乳の如く白かった。彼がその名を認めた時に見ると爪の先には少しの垢も溜っていなかった、これこそ何者にも勝る紹介状ではあるまいか」社会は有為の青年を望んでいる。国家は前途ある青年に期待している、中等学校専門学校と智的教育は進歩しているかも知れないが徳育の教養は却って退歩してはいないか。国家を益するには社会から、社会を利するには一家から、一家を興すには一身から、一身を立てるには一心から、一心を磨き、精神を鍛錬し、魂を浄化してこそ玲瓏玉の如き人格は築き上げられ、起居進退則に契い、出ては犠牲奉仕の活躍となり社会国家を聖化し得るのである。
(大沼法龍著「教訓」38紹介状のない紹介状)
これが、高森顕徹著「光に向かって100の花束」では、こうなります。
世界に名高いニューヨークのウールウォース商会が、監督一名を募集した。
応募した希望者には、立派な推薦状をたずさえた者が多い。
ところが採用されたのは、なんの学歴もない、紹介状も持たなかった一青年である。
採択理由に、こう記されてあった。
「彼は一葉の紹介状も持参しなかったが、実に多くの、明白な紹介状を携えていた。彼は部屋に入るとき、まず足のちりを払い、入室すると静かに扉を閉じた。注意深い性格がうかがえる。席に着こうとしたとき、彼は、身体の不自由な老人のいるのを見て、すぐに席をゆずった。親切でやさしい人格が知られる。部屋に入るや、まず帽子をとって一礼し、はきはきと我々の質問に答えた。丁寧で礼儀正しいことがわかる。彼はまた、少しも先を争うことなく、己の番のくるのを規律正しく待っていた。その服装はお粗末だったが清潔で、髪はきれいにととのえられ、歯は乳のように白かった。署名した彼の爪の先には、少しのあかも見ることはできなかった。これこそは、なにものにも勝る紹介状ではあるまいか」
社会は有為の青年を望んでいる。
高校、大学は林立し、知的教育は急進しているかもしれないが、徳育はかえって退歩しているのではなかろうか。
ウールウォース商会幹部が見ぬいた、なにものにも勝る紹介状を身につけたものこそ、社会国家を浄化することができるのであろう。
(高森顕徹著「光に向かって100の花束」(56) 推薦状などにたよるな!なにものにも勝る紹介状を身につけよ!)
どう見てもパクリです。本当に有難うございました。
大沼法龍氏の本の内容は、次から次へとアップされていますが、高森氏はどうもこれを殆ど丸写しに近い形でパクって、「光に向かって100の花束」を書いたようです。
「光に向かって100の花束」が1万年堂出版によって一般向けに発売されるときに、各説話の出典がわからず編集員が苦労したという話を聞いたことがありますが、出典がわからなかったのではなく、明らかに出来なかっただけなのでしょう。
だって、参考にして書いたと言うレベルの話ではありませんから。そのまんまパクリですから。親鸞会で「大沼法龍の本は読むな」と言われていた理由がよく分かりました。
最後に、親鸞会発行の高森会長礼賛本「随行録」より。
○ 余裕
待ちに待った『光に向かって』第二集発刊。
第一回新聞掲載は昭和五十一年八月。以来十三年、百六十話にのぼる。
その間、原稿締切に遅れられたことは一度もなかった。
〝今だからあかそう〟
と仰有って。
先生「いつも三ヵ月分、書き溜めていた。
三ヵ月先の分を今月の締切までに、必ず書いておく。
三回分あるから今回は大丈夫と思っていると、絶対に書けなくなるから。
倒れた時も、だから休載はなかった。
余裕は、タナボタでは来ない」
(親鸞会発行「随行録」H・2・7)
「光に向かって」は、「光に向かって100の花束」の元になった本です。
休載はないでしょう。だって、タネ本からパクって来るだけなんだから。
「今だからあかそう」「余裕はタナボタでは来ない」だそうです。人の著書をパクって書いておいて、よく平気でこんな恥知らずな自慢を書けるものです。
おそらく罪悪感という概念自体が無いのでしょう。
親鸞会はおかしいけど高森顕徹会長だけは信ずる、という方は多いようですが、そろそろ考え直したほうがいいのではないでしょうか。
人の著作をフルパクリして、その事実を隠し、偉そうに「余裕はタナボタでは来ない」とか言っている人物が、一体どの程度の人間なのか、普通に考えればわかることですから。そして、こんな本を親鸞会の信者の力を使って大量に買わせ、ベストセラーに押し上げたのですから。
こんな人を「世界唯一の善知識」とか、思っていた自分が情けないし、なんだか悲しいですね。
「光に向かって」をもっと詳しく知りたい人は、こちらもご覧ください。
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コメント
サイト読みましたが、123のこころのタネの方も、大沼氏のパクリだらけですね。100の花束で味をしめたのでしょうか?
投稿: こころのタネ | 2007年8月27日 (月) 23時06分
大沼法龍氏って、ほんと凄い人だと思います。
伊藤氏や増井氏も、獲信してるでしょう。
そうじゃないと書けないような凄い内容です。
とは言っても高森先生の説法は、これまた凄いのは間違いないです。
世間の凡人らとは、桁違いです。
弥陀の本願は真実であるとわかる、それぐらいの眼力は持ち合わせてほしいと思います。
正信ゲをはじめ親鸞聖人、蓮如上人の著作や言葉をあれだけ噛み砕いて説法できる人もそういないのは明らかです。
正直、親鸞聖人が殺人や窃盗されても何ら驚かないのです。
所詮、上記の5方も泥凡夫ですからね、人間である限り。
逆謗の屍にかわりはありません。
弥陀の本願のみまことなのですから。
弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。
仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。
善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。
法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。
栓ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。
このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと云々
投稿: 煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もって空事・たわごと・真実あること無きに、ただ念仏のみぞまことにて在します | 2007年8月27日 (月) 23時59分
みなさん、人を信じてるんじゃないのでしょうね?
「信じる」のは、あくまで『弥陀の本願』ですぞ。
「信ずる」といっても、我々の心で信じるのではありません。
弥陀より賜るまことの心で信じるのです。
煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もって空事・たわごと・真実あること無きに、ただ念仏のみぞまことにて在します
投稿: 他力の信心 | 2007年8月28日 (火) 00時02分
おい、誰か、高森会長も「そらごと、たわごと」だって、教えてやってくれよ。
投稿: おい | 2007年8月28日 (火) 00時22分
高森先生が大沼氏の著作を紹介してくださったからこそ、深遠な親鸞聖人の教えを知ることが出来てよかったです。
いくらすばらしい人がいても伝えてくださる人がいないと私たちは知ることが出来ませんからね。
しかし、高森先生も上手に校正されており、内容がより鮮明になり、私たちはよく理解できます。
ありがたいことです。
その意味で高森先生の功績は大きいです。
著作権などは世法にすぎません。
尻の穴の小さいことを言ってては、今宵の後生に間に合いません。
浄邦を欣う徒衆、、穢域を厭う庶類、取捨を加うといえども、疑謗を生ずることなかれ、と親鸞さまもおっしゃる通りです。
私らは、ただ素直に弥陀の本願ひとつを求めていけばよいのです。
投稿: 幸福者 | 2007年8月28日 (火) 00時22分
その深遠な親鸞聖人の教えが書かれた大沼法龍先生の本を読んだら除名ですか。
そんな素晴らしい先生がおられるなら、なぜ私たちに紹介してくださらないのでしょうか?
投稿: はてな? | 2007年8月28日 (火) 00時35分
高森先生が精選抜粋されてるから、不要なのかもね。
でも、読みたい人は、読んでもいいんじゃないの。
大沼法龍氏も、とてつもなく凄い先達だが、いかんせん無名でだね。
江戸、明治、大正、昭和と無名の妙好人は大勢いたね。
高森先生は批判が多いが、あなたも、よく思い起こしてみなさい。
高森先生の説法、教学講義、先生が尽力された教学聖典、アニメ、なぜ生きる、これらの内容は本当にすばらしい。絶品です。
高森先生の功績は偉大であることは、ホント間違いないです。
今なにかと話題の上田氏や中根氏も言ってみれば先生のパクリですからね。
とにかく、まあ、仏法を伝えるのは、たいへんなことだと思います。
投稿: 弥陀の本願信ずべし | 2007年8月28日 (火) 00時45分
辞めた人間をパクリという前にあんた方の大将のパクリ癖を何とかなさいな。
他人の著書をパクっておいて「余裕は、タナボタでは来ない」って。
しかももったい付けて「今だからあかそう」って。(大笑)
こんなところで曝されて恥ずかしいですね〜。
>>著作権などは世法にすぎません
親鸞会は著作権についてその程度の認識しかないわけか?呆れて開いた口がふさがりません。
>>尻の穴の小さいことを言ってては、今宵の後生に間に合いません。
批判サイトを見るなだの華光会の本を読んだら除名だのとおっしゃる方々のお言葉とは思えませんな。(笑)
投稿: 先生のパクリって・・・ | 2007年8月28日 (火) 02時49分
>大沼法龍氏も、とてつもなく凄い先達だが、いかんせん無名でだね。
>江戸、明治、大正、昭和と無名の妙好人は大勢いたね。
何言っているんですか?
当時の大沼氏は、今の高森氏とは比較にならないほど有名で、南本願寺を作ろうとして本願寺も影響力を無視できず、破門せざるをえなかった人だぞ。
高森氏を有名だと思っているのは親鸞会会員だけ。
まさに無名の妙好人なんだよ。
>今なにかと話題の上田氏や中根氏も言ってみれば先生のパクリですからね。
>とにかく、まあ、仏法を伝えるのは、たいへんなことだと思います。
中根氏を説法は聞いたことがないけど、上田氏の説法は高森氏よりはるかにまし。
少なくともパクリではないでしょう。
パクリというのは、文章をそのまま丸写しして、しかもそれを100万冊以上売り上げて、ボロ儲けすることを言うのではないですか?
投稿: パクさん | 2007年8月28日 (火) 07時47分
上田氏の説法は9割5分以上、高森先生の説法そのままだよ。
説法の構成の礎、土台は、高森先生だよ。
上田氏の説法をよいと思うのなら、高森先生の説法をよいといってるのとかわらないよ。
投稿: くぱ | 2007年8月28日 (火) 09時11分
浄邦を欣う徒衆、、穢域を厭う庶類、取捨を加うといえども、疑謗を生ずることなかれ、と親鸞さまもおっしゃる通りです。
私らは、ただ素直に弥陀の本願ひとつを求めていけばよいのです。
弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。
仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。
善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。
法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。
栓ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。
このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと云々
煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もって空事・たわごと・真実あること無きに、ただ念仏のみぞまことにて在します
投稿: じっくり味わいましょう | 2007年8月28日 (火) 11時06分
>>上田氏の説法は9割5分以上、高森先生の説法そのままだよ。説法の構成の礎、土台は、高森先生だよ。
おっしゃるとおりだと思う。
その大半は大沼氏から流れる教義でもある。
ところが上田氏と異なる部分についてはどうか?
高森会長の説法には組織運営や募財に都合が良いように法をねじ曲げたり、つなぎ合わせたりしてるところが問題になってるわけで。
上田氏の話は「 次第に迷雲も晴れ」る教えではないことは確か。
投稿: そのとおり | 2007年8月28日 (火) 11時47分
>>上田氏の説法は9割5分以上、高森先生の説法そのままだよ。説法の構成の礎、土台は、高森先生だよ。
聞いてみたが、確かに内容は似ている部分もある。
しかし話は上田氏の方が格段に上手い。
文章まる写しの著書をパクリというのは分かるが、上田氏の説法をパクリというのは不適切では。
投稿: ○村 | 2007年8月28日 (火) 13時02分
あ ほ く さ
コメント欄見て呆れる
著作権どうでもいいとかいうトンデモ発言
投稿: | 2019年10月30日 (水) 08時39分