毀誉褒貶はまかせたり
聞くに堪えぬ聖人への悪口雑言を、当時の同士は散々聞かされたに違いない。動乱し、離れてゆくものもあったろう。(中略)あれから七百年。いつの世にも真実を知るものは雨夜に星で、口さがない者たちの無責任な方言に惑乱するものばかり。毀誉褒貶はまかせたり。親鸞学徒はいつの世も、遍満する虚仮不実の中に立ち、南無阿弥陀仏の凱歌をあげるのだ。(顕正新聞平成19年7月1日号)
いわゆる問題のある宗教団体が、自分たちへ向けられる批判を、「祖師も批判を受けたように自分たちも批判を受けるのだ」と主張するのは、迫害というエントリで書いたとおりです。
この記事でも、かつて親鸞聖人が悪口を言われたように、自分たちも批判を受けているのだ。そんなものには負けてはならないぞ、と主張しているのでしょう。
わたしも会員でいたときならば、この記事を見て、親鸞会への批判は本願寺の陰謀だ、ネットでの無責任な方言だと思い、そんなものに惑わされてなるものか、自分ひとりになっても最後まで求めぬくぞと決意を新たにしたに違いありません。
しかし、外に向かっては「毀誉褒貶はまかせたり」と勇ましく豪語する親鸞会ですが、その一方で会員をやめた人に「親鸞会を批判しない」という誓約書を書かなければ、預かった金は返さないと脅したり。教学講義を受講するのに「本会を批判しない。批判するものがいたら報告する」という誓約書を書かせたり。親鸞会を批判する人を除名し、その人格を貶めるような事を会員に徹底したり、ネットで個人攻撃したり…
勇ましい文章とは対照的に、そこには批判を恐れ徹底的に潰そうとする姿が浮かび上がります。頼むから批判しないでくれ、という親鸞会の悲鳴にも似た叫びが聞こえてくるようです。
親鸞聖人が門徒から集めた浄財で弁当屋を作ったり、先達の書いた著書をそのままパクって自分の著作に載せたりして批判され、当時の門徒に「わたしを批判したものは除名だ!」という誓約書を書かせ、除名された人の悪口を言いまくっておられたのならば、この顕正新聞の文章も納得がいきます。
しかし、今の親鸞会の実情を見ていると、「毀誉褒貶はまかせたり」と彼らが当時の親鸞聖人の姿と自分たちを重ねてみても、あまりの違いに失笑するほかありません。
かつて会長の息子がスキャンダルを起こしたとき、スキャンダルを暴いた人たちは徹底的に粛清され、当事者である会長の息子の組織内での地位は全く揺るぎませんでした。
そこには親鸞聖人が善鸞を義絶されたような厳しさはどこにも感じられません。
「聞くに堪えぬ聖人への悪口雑言を、当時の同士は散々聞かされたに違いない。動乱し、離れてゆくものもあったろう。」
今も親鸞会の姿に辟易し、離れてゆく会員は後を絶ちません。しかし言うまでもなく、700年前に親鸞聖人のもとを去った同行とは全く違います。
『人間は見たいと欲する現実しか見ていない』とはユリウス・カエサルの言葉ですが、親鸞会の姿に落胆し離れてゆく人は、見たくない現実から目を背けず、それを見つめる勇気を持った人だからです。
自分の人生に徹底的に真面目になり、依存を断ち切る決意がなければ、親鸞会をやめることは出来ません。
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