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小山市の「いきいき大学」は親鸞会のダミー組織です

栃木県小山市に「いきいき大学」という団体があります。
http://ikiiki-daigaku.com/

ウェブサイトを見ると、まるで地域の生涯教育団体のように見せかけていますが、実態は新宗教団体である浄土真宗親鸞会への勧誘を目的としたダミー組織です。

ちなみにここで「やわらか死生学」の講座を担当しているのは浄土真宗親鸞会の専任の講師部員(布教使)です。

なぜ、自分は親鸞会の講師であると書けないのでしょうか。

ちなみにこの「いきいき大学」は、他にも親鸞会の幹部を招いて講演させているようですが、そこでも全く「親鸞会の講師」という事実は明かされず、参加者には巧みに立場を隠して紹介しているようです。

かつて学生対象であった親鸞会のダミー組織は、大学側の反対が強くなるにつれ、社会人サークルや生涯教育団体に姿を変え、全国でその数を増やしています。

なぜ、真摯に「浄土真宗親鸞会である」と名乗れないのでしょうか。そしていつまで隠し、ごまかし続けるのでしょうか。

まともな宗教団体なら、正々堂々と名乗って何ら都合の悪い所はないはずです。隠さなければならない理由は、彼ら自身が一番よく知っているのでしょう。

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除名の理由

昔親鸞会にいた人から、ある講師の話を聞いたことがあります。

その人は、親鸞会に入って講師部員として活動していましたが、あるとき信心決定してその喜びを多くの人に話をしていました。いつも沢山の人が、仏法を聞きたいとその人のもとに集っていたそうです。

それがあるとき、些細な理由で突然除名になってしまったそうです。

そういえば、「除名の真相」ブログに、元親鸞会講師部員である清森氏の「除名の理由」が報じられていました。

(1)華光会の本を読んでいた。
(2)七祖聖教を読んでいた。
(3)西堀咲枝さんの話を聞いていた。
(4)上田祥広さんの味方をした。

華光会の本とは、高森顕徹会長が自身の著作を書くときに盗作した元ネタです。七祖聖教とは、七高僧の書かれた聖教であり、親鸞聖人もよく著作に引用されているものです。西堀さんというのは、信心決定したといわれている滋賀県の親鸞会会員です。上田氏については、あえてここで書く必要はないでしょう。

つまり、高森顕徹会長以外に「善知識」がいては困るし、高森氏の知られたくない過去が明らかになっても困る、ということなのでしょう。

実にわかりやすい除名の理由です。

私は、こんな人に自分の人生や財産を全てささげるような人が、理解できません。

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大阪の社会人サークル「ふきのとう」は親鸞会のダミーサークルです

大阪に、「ふきのとう」という社会人サークルがあります。
http://www.kokoro-kyukeijikan.com/

ホームページを見ても全く書いていませんが、このサークルは浄土真宗親鸞会のダミーサークルです。

最近の親鸞会は、学生だけでなく社会人に対しても宗教団体であることを秘匿したダミーサークルを多数作り、活発に勧誘しているようです。

摂理や統一協会の何が問題で社会的に糾弾されたのか、彼らは果たして分かっているのでしょうか。どうして正々堂々と「浄土真宗親鸞会である」と自らの立場をあかして勧誘できないのでしょうか。

顕正新聞では「毀誉褒貶はまかせたり」と一見堂々としていますが、実態は勧誘時に自分の正体すらあかすことの出来ない団体。自分たちに向けられた、悪い評判に怯えているのでしょうか。

そういえば、最近 なぜ私は親鸞会をやめたのか 反響集こんな投稿があがっていました。

学友部(学生部)は発足当初は純粋に大学生のみの有志による集まりだったと聞いています。仏教の教えを学び求める団体として対外的にも認知されていましたし、教えそのものに誇りをもって堂々と活動していました。それが、いつの頃からか仏教を聞き求める集まりであることを隠すようになり、大学生活の情報や講義情報などを売りにして新入生を勧誘するようになってしまったのは実に悲しいことです。

「宗教に偏見のある時代だから、より多くの人に仏縁を結んでもらうためには仕方のないことだ」と言われますが、教えが真実であるという自信があるのなら、もっと正当なやり方もあるはずです。種々の新興宗教がやるようなことをして欲しくはありません。

幾ら親鸞会が「教えが真実だから」と主張しようと、統一協会や摂理と同じ事をやっていたのでは同じに見られて当然でしょう。摂理や統一協会だって親鸞会と同じように、自分たちの教えが真実だと主張しているのですから。

こうした良識ある会員の声は会内でどこまで届いているのでしょうか。自浄能力を失った教団に、勧誘姿勢を改めることを期待しても無理なのかも知れませんが。

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毀誉褒貶はまかせたり

聞くに堪えぬ聖人への悪口雑言を、当時の同士は散々聞かされたに違いない。動乱し、離れてゆくものもあったろう。(中略)あれから七百年。いつの世にも真実を知るものは雨夜に星で、口さがない者たちの無責任な方言に惑乱するものばかり。毀誉褒貶はまかせたり。親鸞学徒はいつの世も、遍満する虚仮不実の中に立ち、南無阿弥陀仏の凱歌をあげるのだ。(顕正新聞平成19年7月1日号)

いわゆる問題のある宗教団体が、自分たちへ向けられる批判を、「祖師も批判を受けたように自分たちも批判を受けるのだ」と主張するのは、迫害というエントリで書いたとおりです。

この記事でも、かつて親鸞聖人が悪口を言われたように、自分たちも批判を受けているのだ。そんなものには負けてはならないぞ、と主張しているのでしょう。

わたしも会員でいたときならば、この記事を見て、親鸞会への批判は本願寺の陰謀だ、ネットでの無責任な方言だと思い、そんなものに惑わされてなるものか、自分ひとりになっても最後まで求めぬくぞと決意を新たにしたに違いありません。

しかし、外に向かっては「毀誉褒貶はまかせたり」と勇ましく豪語する親鸞会ですが、その一方で会員をやめた人に「親鸞会を批判しない」という誓約書を書かなければ、預かった金は返さないと脅したり。教学講義を受講するのに「本会を批判しない。批判するものがいたら報告する」という誓約書を書かせたり。親鸞会を批判する人を除名し、その人格を貶めるような事を会員に徹底したり、ネットで個人攻撃したり…

勇ましい文章とは対照的に、そこには批判を恐れ徹底的に潰そうとする姿が浮かび上がります。頼むから批判しないでくれ、という親鸞会の悲鳴にも似た叫びが聞こえてくるようです。

親鸞聖人が門徒から集めた浄財で弁当屋を作ったり、先達の書いた著書をそのままパクって自分の著作に載せたりして批判され、当時の門徒に「わたしを批判したものは除名だ!」という誓約書を書かせ、除名された人の悪口を言いまくっておられたのならば、この顕正新聞の文章も納得がいきます。

しかし、今の親鸞会の実情を見ていると、「毀誉褒貶はまかせたり」と彼らが当時の親鸞聖人の姿と自分たちを重ねてみても、あまりの違いに失笑するほかありません。

かつて会長の息子がスキャンダルを起こしたとき、スキャンダルを暴いた人たちは徹底的に粛清され、当事者である会長の息子の組織内での地位は全く揺るぎませんでした。

そこには親鸞聖人が善鸞を義絶されたような厳しさはどこにも感じられません。

「聞くに堪えぬ聖人への悪口雑言を、当時の同士は散々聞かされたに違いない。動乱し、離れてゆくものもあったろう。」

今も親鸞会の姿に辟易し、離れてゆく会員は後を絶ちません。しかし言うまでもなく、700年前に親鸞聖人のもとを去った同行とは全く違います。

『人間は見たいと欲する現実しか見ていない』とはユリウス・カエサルの言葉ですが、親鸞会の姿に落胆し離れてゆく人は、見たくない現実から目を背けず、それを見つめる勇気を持った人だからです。

自分の人生に徹底的に真面目になり、依存を断ち切る決意がなければ、親鸞会をやめることは出来ません。

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