無条件服従
この決勝点を教えられたのが、蓮如上人の次のお言葉です。
○善知識の仰なりとも「成るまじき」なんど思うは大なる浅間しき事なり。然れば「道宗、近江の湖を一人して埋めよ」と仰せ候とも「畏まりたる」と申すべく候。(蓮如上人『御一代記聞書』)
善知識が「近江の湖(琵琶湖)を一人で埋めよ」と言われたら、「ハイ、かしこまりました」と言うべきである、と教えられています。善知識の言葉、すなわち仏教の結論である「一向専念無量寿仏」を「ハイ」と聞いたときが、救われたときです。
なぜ私は親鸞会をやめたのかを読んで
http://shinranshonin.hp.infoseek.co.jp/naze16a.html
これが、会内向けに書かれた「顕正新聞」だとこうなります。
我々も又、善知識の仰せに対し本会の指示に対し、何事も何事も仰せのままに指示通りに無条件で服従するように努めていかねばならない。これが求道であり、 この過程があってこそ、親鸞聖人の「よき人の仰せをこうむりて信ずるほかに別の仔細なきなり」という真の無条件服従が体験できるのである。(顕正新聞)
無条件で服従せよと言うのは仏説に対してのことです。しかし親鸞会ではそれがいつの間にか、親鸞会という組織の指示に無条件で服従することになっています。いつ蓮如上人が「組織の指示に無条件服従せよ」とおっしゃったのでしょうか。
ただひたすら、善知識を弥陀の化身と仰ぎ、善知識のお言葉を弥陀の直説と頂いていく事にのみ、私達が無碍の大道に雄飛できる道のある事を再自覚し、会長先生の御下にぬかずかねばならない。(顕正新聞)
そもそも、親鸞会が根拠としている『御一代記聞書』は、蓮如上人の著作ではありませんし、その信憑性には大いに疑問符がつけられているものです。
仮に『「畏まりたる」と申すべく候』と仰ったとしても、「善知識を弥陀の化身と仰ぎ、善知識のお言葉を弥陀の直説と頂いていく事にのみ、私達が無碍の大道に雄飛できる道のある事を再自覚し、会長先生の御下にぬかずかねばならない」などと機関誌に書かせるとは思えませんし、そもそも「善知識に無条件服従しなければ救われない」などと仰ったことはありません。
だから、親鸞会でも、その通り教えられているのです。(なぜ私は親鸞会をやめたのかを読んで)
どこがその通りなのでしょうか?
また、もちろんこれは、何でもかんでも自分の判断を放棄して、他人の言いなりになれ、奴隷やロボットのようになれ、というような低レベルのこととは、次元の違う話です。(なぜ私は親鸞会をやめたのかを読んで)
この絶対の体験をするまで、聴聞によって無条件服従の心を培い、本会の指示に無条件に従うことによってその形を整え、心身ともに無条件服従へ仕向けていく努力が自己の信心決定を早め、強固な組織作りとなり、真宗の流れをより早く可能たらしめるのである。(顕正新聞)
心身ともに無条件服従に仕向けてゆけとのことです。これは「奴隷やロボットのようになれ、というような低レベルなこと」と何が違うのでしょうか。
蓮如上人が直接かかれたものでもない、言行録の一説を金科玉条のごとく振りかざし、親鸞聖人が仰ったこともない「無条件服従」を執拗にすすめているのが親鸞会です。
求道とは、本当の仏教を説く善知識の言葉を「ハイ」と聞かせて頂くところまで進む道程です。(なぜ私は親鸞会をやめたのかを読んで)
会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
上司の指示は会長先生の命と心得ます。(親鸞会講師部聖則)
親鸞聖人の仰ったことに「ハイ」と従うのはいいでしょう。
しかし、「本当の仏教を説く善知識」が高森会長だと聞かされて、無条件で「ハイ」と従うのは考え物です。
親鸞聖人が、自らの弟子に「自分の指示に無条件で従え」という「聖則」を作って毎日読ませるような方だったのか、よく考えればわかることだからです。
カルト宗教では、宗祖や教義への思いをたくみに教祖への服従にすりかえます。決して考える事をやめず、生ずる疑問をあいまいにすることなく、よく考えてみてください。
高森会長が「本当の善知識」かどうかは、あくまであなたが自分の頭で判断するしかないのですから。
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