次第にその迷雲も晴れ
続いて申し訳ありませんが、公開法論2でついに福田講師が議論の打ち切りを宣言しました。
「どうやら、これ以上のやり取りは無意味のようです。」
「とても正常とはいえません。」
「さるべき業縁がきて、気が変になられた方なのでしょう。」
「ただただ、お気の毒です。」
なぜ私は親鸞会をやめたのかの管理人と親鸞会との議論でも、最後質問に答えられなくなった親鸞会側が「これ以上のやりとりは無意味」と議論を打ち切っていますが、質問に答えられなくなったら無意味と宣言して打ち切るのは親鸞会の常套手段なのでしょうか。
なにしろ、 齊尾氏の質問を全て無視して、逆に大量の質問をふっかけて、その後「気が変になられた方なのでしょう」と打ち切って終わりだとしたら、無責任もここに極まります。
何度も申し上げますが、これは小学生相手の言い合いではないのです。親鸞会で最高の学位を持つ現役講師部員との法論なのです。それでここまで無責任な対応が出来るのですから、「いついかなる場合でも相手の望む方法で法論に応じる」などと言う身の丈に合わない宣言はすぐに撤回すべきでしょう。
しかし、この法論を読んだ人がどんな感情を抱くかはかろうじて想像できるようで、「公開法論は読むな」という指示が各所でなされているそうです。
まるで自分たちに都合の悪い情報にはアクセスできないように情報統制するどこかの国のようです。そこでは将軍様が「親愛なる指導者」と崇められ個人崇拝の対象となっているそうですが、会長が「まさに親鸞聖人、阿弥陀仏の生まれ変わり」とたたえられる某新宗教団体とどこどこまでも似ています。
そういえば、 齊尾氏が答えたメールで、高森会長が過去にこんな事を書いていることが明らかになりました。
次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。ただただ「そのままこい」「そのままでよい」とは何と有難いことでしょうか。
これが高森氏の信仰体験だそうです。一念で疑惑が晴れるのが浄土真宗の救いではなかったのでしょうか。親鸞会の人は高森氏の信仰を絶対のよりどころにしていますが、どうもそれすらも怪しく思えてきます。
| 固定リンク
コメント