金のある者には、大法の為にどんどん使うように勧めたらよい。
親鸞会にいたときに、随分募財(献金集め)の活動をしました。支部ごとに目標が割り当てられており、絶対に達成するように厳命されていましたので、それは大変だったものです。
年金暮らしで、これ以上はどうしても出せない、と泣かれるお婆さんの前で、何時間も粘って予約用紙を書いてもらったこともあります。
私の知人は、「多額の献金を募るときに「かわいそう」と思うと言うことは、仏法を分かっていないからだ」といわれたそうです。また、「年配の人はお金を持ってないと言っても本当は絶対に持っているから、出されるまで何時間でも話をせよ」と言われた事もあります。
その後、高森会長が専用の改造バスに専属コックや厨房車まで引き連れて法話に行ったり、高価な絵画を大量に買い込んでいることを知りました。株に投資したり、会社を作ったりもしているそうです。
もちろん、乏しい年金の中から、泣く泣く献金をしたおばあさんが、そんな事を知るはずもありません。
金のある者には、大法の為にどんどん使うように勧めたらよい。
自損損他のアブクゼニを、大法の為に活かすよう仕向けるのは、大慈大悲である。
この精神を恥ずかしく思うのは、仏法の尊さがまだ分かっていないのだ。
法もまた財なり、財もまた法である。(高森顕徹会長)
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