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裸の王様

「裸の王様」というアンデルセンの童話を知らない人はいないでしょう。二人の詐欺師が「馬鹿には見えない」という服を王様に着せ、王様はその服を見ることができなかったのですが、自分が馬鹿とは思われたくなかったので、見えもしない服を着たつもりになって町をパレードする話です。

王様の家来も沿道の市民も、王様の服を見ることができませんでしたが、自分が馬鹿とは思われたくないために、王様の服をみんなで褒めちぎります。そこに一人の少年がやってきて、「王様は裸だ」と言う話です。

私は現会員や元会員の方とお話したり、メールのやり取りをする機会がよくあります。中でも、こんな意見を聞くことが多いです。

高森会長の説法にほとんど感動できなかったし、親鸞聖人、蓮如上人以来の善知識とも思えなかったが、周りの人から「仏法をわかってない」「仏縁の浅い人」と思われたくなかったので、自分だけがわかってないのだと思い、無理やりすごい人だと思い込もうとしていた、というのです。

周り中が、高森先生は尊い、真の善知識だ、親鸞聖人の生まれ変わりだ、などといっているのを見ると、自分だけがわかっていないような気がして、一生懸命感動しようとしたり、疑念を払拭するために自分から高森会長のすばらしさを人に話したりします。

しかし自分の本心でないから、そこには何か無理が生ずるのです。学生時代、よく聴聞帰りのバスの中で説法を聞いた「感動」を各自が語るのですが、金太郎飴のように出てくる言葉はみんな同じで、奇妙な不自然さに満ちていました。

カルト宗教はどこも教祖を美化します。当然、教祖にとって都合のいい情報だけがフィルタリングされ、都合の悪い情報は隠されます。高森会長の「会報」が、伊藤康善氏や大沼法竜氏の過去の著作とそっくりだという指摘がネット上で明らかにされたとき、そのサイトは親鸞会からのクレームでつぶされ、現代仏教界の最高峰に位置する著作と宣伝されていた「会報」は、理由も明らかにされないまま絶版になりました。

王様のパレードを見た人は、「王様の服が見えてないのは自分が馬鹿だからだ」と思っていたのでしょうが、実際の王様は裸でした。親鸞会にいると、高森会長の説法に感動できないのは、自分の聞き方に原因があるからだと思ってしまいます。

しかし、実際はどうなのでしょうか。朝晩二回部下に自分への絶対忠誠を誓わたり、食堂に行くのに会員とは別の専用の渡り廊下を作らせたりするような人物を、私は善知識と思うことはできません。王様は裸なのです。

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